2011, Feb.
どこかの田舎街。幼い三姉妹。大人が作った街の片隅。
コドモたちは、自分たちだけの”住処”を作って遊んでいる。
幼少期から青年期までの数年間。居場所を求めて、壊された、コドモたちだけの話。
『コドモもももも、森んなか』はひとまずは喪われてしまったものを取り返そうとする話であると言える。喪われてしまったのは“モモ”という存在とそれに象徴されるこどもたち(の時間)である。“モモ”の不在をめぐって、針跳びするレコードのように執拗に繰り返されるリフレインは、その思いの強度が溢れさえすれば、すべては元通りになると言わんばかりだ。しかし、もちろんそれは叶えられず“モモ”がいない毎日が繰り返され、姉妹の姉は忘却に塗りつぶされるようにして町を出ていくことになるだろう。ただし、それだけであるならば、この作品は誰しもが記憶にある幼年時代を、もはやそれを取り戻すのが不可能としりつつも追憶する美しく甘やかでちょっとせつない佳品でしかない。喪われた過去といまここの現在との距離をほどほどに操作して「作品」とするような微温さを藤田貴大は採らない。過去と現在は「喪われたもの」として一挙に取り返されるのである。リフレインはそれが起こること自体によって、喪失を現前せしめる。“モモ”は存在したのに喪われたのではなく、いまここで喪われたものとしてのみ存在するのである。生それ自体は存在せず、ただ「再/生(再生)」のみが存在する。そもそも、この劇場には何もなかった。いまや“モモ”という不在をめぐるこの話こそが全体として不在なのだということを誰もが理解しているはずだ。つまり、われわれが観ているのはreplayこそがplayであるという演劇の原理をめぐる演劇なのだった。それを森という舞台のなかに美しく甘やかにせつなく封じ込めてみせた藤田貴大のみずみずしい才気が光る一編。
飯田浩一