2012, Mar.
死にゆく男と周囲の人々。始まりと終わりの中間点。
人々は右往左往しながら、生まれてから死ぬまでを、
常に進行方向を変えずに、矢印を終点に向けながら、
今日も陰鬱に歩いている。今夜も酔っ払ってしまい、
それでも街へ繰り出して、歩く。歩く。歩く。歩く。
廃校になった学校の中を、歩き。躓き。歩き。躓き。
ひたすら反復し繰り返す、冬のマームとジプシー的、
人生論みたいな辛いお話。
マームとジプシーの2012年の劇『LEM-on/RE:mum-ON!!』は、昭和のモダニズム文学者梶井基次郎の全短編小説を題材とし、その真髄を掴むとともに、彼らの実験的方法の成果を証明した意欲作だ。演出の藤田貴大は、梶井の文学を貫く、病の苦しみや、文学者を目指す青年の鬱屈と、「歩く」という身体行為が呼び覚ます感覚の蘇生や生への哲学的考察との間を行き来する心理的循環運動を取り上げて、それを、マームとジプシー特有の、台詞や動作や場面の繰り返しによってある感情や心的イメージを観客の心に深く刻印する演出方法と重ね合わせた。そこでは、「歩く」という行為が、演劇的主題であり構成上の原理として採用され、京都の元立誠小学校という3階建ての古い校舎の構造を利用して展開された。そして、観客の移動すら巻き込んで、日常の倦怠を断ち切る知覚の刷新や抒情的啓示が観客自身の体験として実体化される、有機的演劇空間がたちあげられた。
3部構成の劇の、建物1階の教室で始まる第1部は、梶井の名作「檸檬」からの引用とオリジナルの台詞を組み合わせ、1920年代の文学青年の憂鬱を2012年の演劇青年の不安に重ね合わせた。そこでは、短い帰省から帰京する「僕」を見送る妹の自転車で追いすがる姿のクロースアップや、女友達との小さな諍いの執拗な残像が、無言で部屋を横切る俳優たちの直線運動の繰り返しの即物性によって断ち切られた。それによって、閉じられた意識が「外」に向かって開いていく過程が体現された。第2部では、観客自身が建物の2階と3階に上がり、その教室や廊下に仕掛けられた、「城のある町にて」、「ある心の風景」を初めとする梶井の短編からの短い引用の朗読や、その細部を連想させる装置や、パフォーマーの換喩的な運動の場を、それぞれのペースで巡り歩くように促された。そして、第3部のアクトは、再びもとの教室に戻り、同じ光景や言葉が繰り返された。だが、その意味は、それまでの体験がもたらした連想の広がりや思考の凝縮を通して、異なるものに変わっていた。
『LEM-on/RE:mum-ON!!』は、劇作家藤田貴大の文学のテクストを読み解く力と、その解釈を体験へと変換させる力とが拮抗し、俳優の高いパフォーマンス力と観客参加のもとに、舞台を詩的体験へと昇華させた希有な作品だ。それは、文学作品、その書き換え、現代美術的サイトスペシフィック・インスタレーション、ダンスの要素を統合しながら、文学的過去を現在の意識に蘇らせた。
細川浩伸