2015, Mar.
一年間の活動休止を経て、ブルーノプロデュース再始動。
《わたし》という像に揺れ動く少女を軸に、集団と孤独を描く青春群像劇。
きっと演出家って二種類いて。パズル系と粘土系で。戯曲という平板を見つめ、その中にピースを見いだし、切り出し、組み立てる(できれば立体に)、パズル系の演出家。ピースの外枠にはそれほど執着しないでパッと捨てられるクールな気質を持ってたりして。「今回はこれでいきます」的な。一方粘土系はというと、ひまさえあれば役者とか演劇という土を捏ねてて。で、「なんか…おもしろいの…できるかなあ…」なんて不敵に考えてる。おそらく塑像づくりが基本ながら、たまに水をためておける壷をつくってみたり。もし橋本清が演出家ならば、もちろん粘土系かと思う。
パズルだろうが粘土だろうが、演出なんてものをはじめる人間は、どうしたって最初は「ウケ」を狙っていく。同級生の、先輩の、後輩の、見知らぬお客さんの、もちろん出演している役者にだってウケたいし、あわよくばネットで有名な批評家にだってウケたい。そういった計りがないと何をしているのかがわからなくなっちゃうんだよね。でも、そのうちに気付く。「あれ、俺なにしてんだろ……?」 ウケ狙いを卒業すると、今度はそうやって自分と向かい合うことになる。「なんで演劇やってんだろ?」「俺にとって演劇って何だろう?」 悶々とした時期を過ごす。おおよそこの頃にパズルと粘土の配合とか、それに応じた所属先が決まっていく(職業演出助手とかにいくのもこの頃かな)。それはつまり、自分をのせる世界を選び、いよいよそれと対峙しはじめることでもある。
今回の『プリズムが砕けて、青』を見終わった後、僕は清に「なんか、SEKAI NO OWARIっぽかったよw」と言ってみた。冗談めかしながらも、タイトルも含め、照明のカラフルさや、劇的チックな音使い、全編をつらぬくなんともいえぬポエム感、フォトエッセイ感をガッツリめに揶揄してみた。しかし奴は、「あ、本当ですか! セカオワ好きなので嬉しいです!」とニッコリ笑った。なるほど、ウケや自分に苦しんだ時期を抜けて、いよいよ世界と向き合いはじめたんだなあ。そう思った。しかも、その世界もいつか終わることを自覚している。ベタだけど、おわりがはじまったね、とか。なんというか、おめでとう。そんな気持ちになった。
Kazuyuki Matsumoto