2010, Feb.
繰り返しの生活の中で、喜びを見つけ寂しさを噛みしめ、
価値観を覆すような出会いを期待する。
けれどそんな出会いが自分の前に転がったときには
……私たちは積極的にそれを歓迎できるか。
もしも失意の底に深く沈むときには、それが助けになるか。
とある俳優に恋するショウコは、古風な一面をアピールしようと歌で告白することを決意する。 ショウコは友達の利頭夢子(りず ゆめこ)に歌の相談するが、夢子は実はリズム三兄妹の末っ子だった。一方、夢子の兄・利頭武(りず たけし)は、三兄妹が大ファンである国民的シンガー、巣恋歌(すごい うた)のリズムが微妙に狂ってきたことに気づいていた……
以前、岡崎藝術座の作品について、乗った場所とはまったく違う場所で降りるジェットコースターのようだと書いたことがあった。でもここ1〜2年の岡崎藝術座は、同じジェットコースターに例えるなら、上下左右への奔放な揺さぶりではなく、Gの負荷を強める方向に変わっている。最新作『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』で到達した、俳優が出てくるや否や、あっという間にそこに磁場をつくり、彼や彼女が何か言ったり動いたりする度に磁力が増して、観ているこちらは微動だにしないままグイグイと地面の奥に引っ張り込まれる身体感覚は、ちょっと他にはない。
私が初めて岡崎藝術座を観たのは『三月の5日間』(脚本:岡田利規)を神里雄大が演出したもので、最初に観たオリジナル作品は『リズム三兄妹』だった。タイトルに「リズム」と掲げ、三兄妹の名前も苗字が利頭(りず)で、長男は武、長女はえむ結う(MU)、次女は夢子と、全員がフルネームで「リズム」と読め、作中の重要なエピソードとして、ある大物歌手のリズムが最近ズレてきたことが語られながら、作品そのもののリズムはかなり歪(いびつ)という人を食った構造はまさに、演劇を理屈で捉えようとする者の脳味噌を痛快にシャッフルするものだった。
だから、あの時と最近の神里は大きく異なるのだけれども、当然ながら最近の神里はあの時とつながっていて、『リズム三兄妹』に『ブラックコーヒー』の片鱗はすでにある。それは、演劇を“つくる”のではなく、演劇を“発生させる”方法を採っていることだ。多くの作・演出家が、言葉や俳優の身体、照明や音楽を材料にしてある世界を立ち上げるのに対し、神里は、言葉や俳優の身体や照明を使って常ならざるものを召喚し、それを演劇として提示する。
『リズム三兄妹』で長女が黙々と生活の様子を再現する時、大物歌手が突如として歌い出す時、次女が延々と踊り続ける時に生まれたのは、私達が馴染んでいるのとは明らかに違う空気でありながら、人工的な気配は一切なかった。俳優達が何か言ったり動いたりする度に、粗野と強引、のうのうとした自信が立ち昇ったが、そこから派生する違和感と恍惚は、まさに演劇でしか感受し得ないものだった。『〜ブラックコーヒー』で行われた召喚は、もはや黒魔術の域に達する迫力だったが、その兆しは、野性的な愛嬌にあふれたこの作品で用意されていたと言えるだろう。
細川浩伸