2010, Jan.
独自の視点で動きが生まれる理(ことわり)を見つめ、ダンスの可能性を探求する岩渕貞太の新たな挑戦。
ダンサー・岩渕貞太との初遭遇がこの『細胞の音楽』だった。当時の岩渕は「よろこぶ身体」をテーマにしていたと後で知ったが、それを思うと、この作品はそうした「よろこび」を細胞レベルのざわめきとして表現していたようにも見える。黒壁に囲まれ、心臓の鼓動のようなリズム音がドゥンドゥンと響き、紫のダウンジャケットを着たダンサーたちが奇妙に絡まり合っていく……その様は率直に言ってちょっと気持ち悪かったけれども、同時に、何か心を惹きつけるものを孕んでいたのも事実だ。
例えば、今では岩渕貞太の特徴とも言える〈他者への関心〉の萌芽が、この『細胞の音楽』にはすでにあったようにも思う。岩渕以外に3人のダンサーが出演していたが、振付を受けてはいるものの、各々に自律した存在として踊っているようにわたしには見えた。大所帯のカンパニーを統率するのではなく、公演ごとに様々なアーティストを迎えて(ほぼ対等に近い関係性で)作品を創作する岩渕のスタイルは、おそらくこの〈他者の自律性を蔑ろにしない〉感覚と無縁ではない。
この作品から岩渕貞太は「身体地図」というチーム名を立ち上げ、以降、実験精神をもって意欲的にダンスの可能性を探っていくことになる。音楽家・批評家の大谷能生とタッグを組んだ『UNTITLED』、『雑木林』、『living』の3部作(2010-12年)では、音というものを単なるきっかけや劇伴として処理するのではなく、そこに在るものとして聴くことで、身体と音との関係を探っていった。映像作家・尾角典子との『UNTITLED with animation』(2012年)もその延長線上にあった。さらに東京デスロック『モラトリアム』(多田淳之介演出、2012年)への出演では、ダンサーという異質な身体性をもって空間に現れ、観客と作品とを繋ぐ重要な役割を果たした。
こうしたコラボレーションを通して、岩渕は、みずからの身体を〈触媒〉とすることで、周囲に存在する、自分とは異質なものたちとの関係を探ってきたように思える。その試行錯誤はまだこれからも続くだろうし、その果てにはいつか、もしかするとかつてとは異なる形で、再びあの「よろこぶ身体」を発見するのではないか、という予感もしている。
Kazuyuki Matsumoto